教育・教科書に付いて
        


         中学校社会科教科書に付いて

 どれが良い教科書か

・新しい学問的成果を慎重に、かつきちんと踏まえていること。
・取り上げる内容が広範に認められていること。論議中のものは避けるか、両論が併記されていること。
・事項が歴史上や人文科学上で重要であると広く判断されていること。
・客観性を大切にして、かつ正確で分かり易く記述されていること。
・13歳くらいの年齢的にも合致していること。
・義務教育として全員に教えるべき内容であること。
・際もの的流行的な内容や表現になっていないこと。
・憲法(旧・現)・教育基本法・学習指導要領などを、部分的に都合よく引用していないこと。
・特定の思想や思潮(反日・自虐の論=左派や皇国・優越の論=右派)に引き込まれていないこと。

 どの教科書を採択するのが良いのか

 現在、歴史教科書は八冊が文科省の検定を通っている。これは左派寄りに偏向している七社側(七冊側)と、右派寄りに偏向している扶桑社(一冊側)に分けることが出来る。
 さて、一方を支援する人々や団体は相手側を批判しているが、批判自体は当たっている部分も多い。自分の偏向を問わずに、相手の偏向のみを批判するからである。しかし中学校歴史教科書として見れば、どちらも失格となる。
 なお公民教科書に付いても、事情は同じである。
 現状ではこの八冊の内から(公民も八冊の内から)採択するしかない。どうすれば良いか、次善の策として考えられるのは、
 ・扶桑社本採択は望ましくない。
 ・七社側(七社側)より、最も公正さに近く、偏向の程度の少ない本を採択するのが望ましい。
 ・やむを得ない・不本意な採択であることを明らかにする。                         以上となる。

 今後の教科書と採択に付いて

 現在の教科書採択方式を止めるべきである。今後も左右両派の政治的思惑に立った圧力などによって、採択を進める上で、より悪い事態を引き起こして行く。
 採択は各中学校で独自に行なうのが良い。既に教科書は検定によって、一定の内容に定まっているのだから、後は各学校に任せるのが良い。
 なお、情実的な採択の防止は別の問題である。採択は結果のみでなく、理由を公表する制度を取り入れても良い。
 さて現在、高等学校では各学校ごとに教科書を採択している。各学校で検討しており、格別な問題も無く利点は大きい。
 例えば日本史では、左派的や右派的に偏向した教科書もある。しかし、最も学問的に優れて・偏向も小さいとされるYK社本が数多く採択されている。地理も同じくNM社本が相当数採択されている。概ね教員の良識が生かされており望ましい状態である。
 上記は特定の勢力の圧力や影響を受け難い為、ほぼ順当な採択が守られている事による。
 なお、学校ごとの採択になれば、YK社など独自の見識を持つ小規模会社も、中学校教科書市場へ参入出来る様になる。

 終わりに
 ・扶桑社本「歴史」「公民」教科書を採択しないのが望ましい。
 ・七社側(七社側)本の内、少しでも偏向の少ない教科書を、やむを得ず採択するのが望ましい。
 ・早急に各中学校ごとの採択とするのが良い。
 ・教科書市場の活性化を図ることも大切である。
                                                     以上を要望します。
     関係者各位殿                        ’01年05月


 後日談  (’01年08月17日)
 採択の結果を見ると、ほぼ本論の通りと成りました。
 右派寄りに偏向していた扶桑社本は採択率が1%未満です。左派寄りに偏向していた七社側の内、偏向度合いの比較的に少ない東京書籍本が、採択率を拡大しています。一応は良い方向へ進んだ訳です。
 扶桑社側はこれを受けて、教科書自体の品質も劣っていた事と、採択へ向けた強引な活動を反省して欲しいと思います。
 七社側(特に東書)は今回の事態を真摯に受け止めて、より一層に偏向の少ない・良い教科書作りを進めて欲しいと思います。
 現状の採択制度には多くの無理が有ります(例えば教育委員が多数の教科書を理解しながら読むのは不可能です)。先に書いた各学校ごと(担当教員)による採択へ向けて、必要な改善を行なうように改めて要望します。
                                                 


(遊歩道)       いわゆる民間人校長を導入する前に

 今日、学校改革の為に民間人校長が採用されており、痛ましい自殺者も出たそうです。しかし民間人採用の前に考える事も有る様です。
 恐らく、数百人に数人と言う優れた人々は教員にならないのでしょう。しかし数十人に数人と言う程度で優れた人々はどの学校にも必ずいます。その学識・実行力・人徳・良識などに於いてです。しかし現実にこの人々は校長になる事を目指しません。本校に於いても然りです。
 その学校で過半数の教員が内心で推薦している人が何故ならないのでしょうか。理由は幾つか有るでしょう。しかしこの第一は公務員制度の弊害から来ていると思われます。特に教育行政の問題です。
 今でも教育行政が校長を通して学校や教員を支配しようとする動きが続いています。これでは優れた人は校長になりません。本来は教育委員が良識と中庸さに立って、学校現場の意向も配慮して、校長の選考に当たるべきなのです。この方式を育てる事です。(なお教育行政は本来の業務に立ち返り、学校や校長などへの支援に徹するべきです)
 これは大切で難しい仕事ですが、これ無くして優れた人材を校長として生かす事は出来ないでしょう。これまでの様に支配欲、右・左翼の対立、利権などが幅を利かせてしまいます。                                      そんな奇麗事は出来ないって。それなら民間人を導入してもねえ。



              教員になる人とって大切な事・・・・・・・穏健・中庸な感覚から考える

 各所で教員の資格や資質などに付いて、様々に言われています。多くの高度な論議も有ります。
 大切な事とは何でしょうか。それは何所にでも居る人々と同じで、特別な条件ではありません。
1)普通の人としての常識・良識、公正さを有している事。(個性・特性・意欲などはこの上に立つものです)
2)一勤労者としての職務上・業務上の誠実さを有している事。(これは単純な事、精神論ではありません)
3)一定の専門家としての職務能力有している事。(付け加えるなら、広い知性を持つ方が望ましいでしょう)
 その他として、有用な趣味(部活動などへ)を持つ、心身の健康さがある、Etcなどが言えるでしょう。
 要は特殊な人でなくとも、確りとした社会人(付け加えるなら、家庭人)であれば良いのです。
 教員を特殊な人に仕立て上げて、教育を語る論説は、多量に流布されていますが、大半は不毛なものです。
 例え一部の人々にとり耳障りが良くても、現実を外れた空虚な論理は、教育や教員を良くする事がありません。