同和・旧部落に付いて


         「文書」に付いて

   市町村長殿  人権・同和担当者殿

 伝えられる所によると、部落解放と称する団体が、下記の様な文書を持参して、市町村の責任者に署名・捺印を求めているとの事です。既にI町・F町などは署名などを行なったそうです。
 しかしこの文書をよく見ると、内容が常識や良識を書いたものと言わざるを得ません。当然に市町村も、安易に「反省」を語り、「研修会」を受け入れ、特定の団体と結び付きを持ったりするべきでありません。
 私もこの問題を研究している関係上、上記に付いて大きく危惧しております。
 付きましては、これ等団体の訪問などを受けましたら、早めに相談をして頂きたく、お知らせ致します。どうぞご連絡下さい。                                     
 なお必要に応じて、資料などをお送り致します。              小菅 清                    

 「文書」        誓約書

 1、同和問題解決の為の取り組みが遅れていた事を深く反省します。
 2、今後同和問題解決に向けて、積極的な取り組みを実施します。
 3、(I)町として、行政職員を対象にした研修会を実施します(実施できるよう前向きに努力します)。

 4、貴団体と連携しながら同和行政、同和教育を推進します。
 5、貴団体が主催する大会、研修会に積極的に参加し勉強します。
 (6)、当町に存在する被差別部落(同和地区)に於ける差別の完全解消に向けて鋭意努力します。
 
       OO団体殿              (I)町長 OOO0           年  月  日




 以下の論文は私が二年前に「月曜評論」誌に掲載して頂いたものです。但し、内容は特に古くなく、二〇〇二年版に対するものより良いので、ここに再録を致します。なお、批判の相手方へは既に送付して有ります。

    
           部落差別は大半が消滅しています 
                                                                                                     「全国のあいつぐ差別事件」(同○○年版)を読み込む

 手元に「全国のあいつぐ差別事件(一九九五年版・同九九年版・同○○年版)」(部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会編・発行、宮崎変保氏等序文、A五版・約二○○頁、解放出版社刊)が有ります(以下、同○○年版を本書と言う)。本書によると、同八二年より内容を変えながら出版を続けて、一九版になるそうです。この手の差別事件集としては、最もよくまとまっている様です。
 本書には多数の事件が載っています。しかし筆者からは内容的に良く分からない部分も有り、かつ当事者への検証がほとんど不可能です。従い文字上で事象を継ぎ合わせて行くしか、読み込みの方法が有りません。これを含んだ上で、本書の資料(事件)を検討して行くことにします。

 部落・同和などに付いて

 普通に部落と言えば、町や村などを形作っている個々の集落を指します。しかし表記の場合はこれと異なります。例えば村内の特定の地域を部落と言ったり、○○地区などと固有地名で言っていた所に付いてです。なを名称の用い方は人々に対する名称も含めて、実に様々だった様です。
 同和は同胞一和の略で、日本人の内から不自然で不合理な区別や差別を無くして行くことを指します。なお同和は「部落差別を無くする」と同義にも使われています。
 部落がどこに在るかですが、今日では同和対策事業や地域生活改善活動が進められた結果、遠方から来た一般の人々が見い出すことはまず不可能です。既に変化しています。従い、筆者は便宜上で旧部落や旧部落系の人々(旧部人)と言う様にします。以下、本書の資料表題(一一項目)に対応して検討を進めて行きます。

 差別身元調査事件に付いて

 本書では三件を取り上げていますが、旧部落系の人々に対する差別事例は有りません。但し同九九年度版によると、大阪アイビー調査会社が顧客企業から採用時身元調査の依頼を受けて、求職者への調査項目に旧部人か否かも含めていた事例が載っています。不当な逸脱でした。
 さて一件は東京アイビー社が求職者への思想調査を主な営業項目としていたこと、一件はA社がB調査会社へ求職者の履歴書をファクス送信して依頼したものです。B社は全員の思想・家族(財産を含む)・学歴・性格・前の勤務先や退職理由・能力・労組加入の有無などを調べて回答しています。但し内容は相当に作文が含まれている様です。なお履歴書自体の送信は不当な行為です。

 なお身元調査に付いてですが、筆者も一般的な否定は致しません。しかし調査にも、許容されるもの・望ましくないもの・許容されないものなどの区別が大切です。もし企業の経営者や人事・営業担当者が目先の利益に惑わされて、許容されない調査を行なうとしたなら、企業の社会的責任を喪失させます。本来は求職者へ陳謝や補償をするべき事態です。
 企業は社会的にも重要な立場に在りますから、雇用や採用に付いても当然に社会的責任が有ります。もし身元調査を依頼する・行なう場合には、きちんと内容を確認して・節度を保って取り組み、不当な行為とならない様に留意するなどに、上記責任の自覚が必要です。
 なお社会の各分野にいる責任ある人々に取っては、不当な調査などが生じない様にとの、監視や規制も大切です。他方、この人々へは調査を安易に不当であると決め付けない様な自制心も求められます。
 
 パソコン通信・インターネットによる差別事件に付いて

 本書では四件を取り上げていますが、本来の意味で旧部落系の人々への差別に当たるものは有りません。一件は現在の情況に付いての解説です。これによると品性下劣な人々が便所の落書きの延長的に、パソコンやインターを悪用している様です。恐らく旧部落関係に限らず、様々な分野で悪用しているのでしょう。
 一件は実在のO氏が電子メイルを用いて、旧部落系のM氏をしつこく非難・誹謗したものです。しかし既にO氏は精神疾患を来たしており、やがて急死したそうです。
 なお留意する事例として、人権団体と自称する団体が外部の人々から、相当に批判されている様です。お互いに責任ある批判を交わすことが出来るなら、互いに取って有意義になると思われます。

 結婚差別事件に付いて

 本書では五件を取り上げていますが、旧部落に関するものは三件、しかし何れも差別に当たりません。(内の二件は身元調査に付いてです)
 一件はB氏(二六才)が旧部落系のAさん(二四才)と二年余りの交際を経て、婚約しました。この後でB氏は親族の反対を受けて、これを取り消しています。B氏はAさんが旧部落系であると前から知っていました。恐らく、反対されたことにに加えて、自分も破棄の口実にしたのでしょう。この件に付いては幾つかの観点から見て行きます。
 先ずは結婚をしない・婚約を破棄する理由に付いてです。これはいかなる理由であっても構いません。もち論、不当な破棄や理由の安易な公言は陳謝や慰謝料支払いの対象となって来ます。これは個人としての責任によるものです。

 次は品性に付いてです。恐らく、将来を含むどの時代であっても同じでしょうが、今日でも日本人全体(一二五百万人)の内には、ごく少数(例えば数%・数百万人位)の品性下劣な人々が居るものです。この人々は様々な分野や地域で、下劣な事柄を繰り返して行きます。行ない方に消極的か積極的かの差異は有るにせよ、旧部落系の人々へも同様に仕向けます。身内の婚約に騒ぎ立て・落書きなどを続けるのもこの人々です。とは言っても、自らの下劣さに気付くことは困難です。
 さて特殊な場合を除くと、その人の品性や根性の良し悪しも、他者にとって直ぐには分かり難いものです。しかし正当な事由も無く、相手が旧部人であるとのこだわりを持ち出した時、その人の品性は即座に分かります。Aさんも「差別」などと言うよりは、結婚前に相手の真実(品性)が分かったことを感謝するべきだったのです。彼女が気付けないなら、誰かがきちんと語って上げれば良かったのです。

 三つは結婚に付いてです。一九九三年の総務庁調査によりますと、かつて(同三十五年頃)は部落の人の結婚相手として、大半(八十%以上)が部落の人となっていました。差別の厳しさを忍ばせます。この情況は戦後へ掛けてゆっくりと変化して行き、やがて同七三年頃に半々(五十%位)となり、大きく事態を変更させます。この頃から結婚も多数者による差別の問題から、少数者自身による対処の仕方の問題へと移行しました。
 以後は変化を速めて、今日では旧部人と他の人との結婚が大半(八十%以上)を占めています。既に旧部人と結婚するか否かの判断は、個々人の品性そのものに掛かっているのです。無論、こだわりや口実とすることは愚行です。

 四つは差別に付いてです。誤解も多い様ですが、誰かが相手方へ誹謗・中傷・嫌がらせ・危害などを仕掛けることは許されない悪行です。しかし差別ではありません。これらに社会的な関係、例えば多数者と少数者・強者と弱者(富貧の差を含む)・事態の持つ社会的な影響力・地位や権限を有する者と無い者・組織的意図的計画的な集団と個々の人などの関係が有って、同じ様な行為も差別となるのです。従い、弱者などからやほぼ対等な関係からは、例え相手が旧部人であっても、差別は成立しないのです。しかし弱者などの行為でもその悪しさの程度によって、名誉毀損・器物損壊・業務妨害などの責任は生じます。
 以上に付いては、会社内における社長と一職員の関係で見ると、差別の成立の有無が良く分ります。ともあれ、一件一件の内容を具体的に・冷静に検討・検証しながら判断して行くことが大切です。

 就職差別事件に付いて

 本書では五件を取り上げていますが、旧部落に関してはチョーヤ社の一件のみです。同社はこれまでのの採用選考において、「部落ということで不採用にした事も考えられる」とあいまいに語っています。しかし時期や事実関係の不明瞭な発言は、誤解を生じさせる無責任なものとなります。なお、応募者へ生い立ちに付いての質問をした理由は「身元のしっかりした者を採用するため」とあります。しかし身元の具体的要件も、社会の変化や会社の事情によって異なって来ます。同社の責任者が採用の基本的方針に付いて、適切な対応へ向けた検討を続けることも大切で、これも社会的責任に含まれます。
 
 さて、統一応募用紙や社用紙の使用・住民票等の提出・面接のやり方や質問の内容・調査書の項目などに付いては、前もって当・不当や良し悪しを決め付けるので無く、柔軟な対処が大切です。要は企業がより適切情報を集め・判断を総合化して行く上で、公正さを保ち・応募者との信頼関係を保つようにと留意しながら、選考を進めることです。
 採用上の不明朗さを減少させる努力が必要で、結局はこれも企業の利益になると言えましょう。他方、応募者も選考に対して過度に秘匿しようとせず、より積極的・具体的な表明をすることも大切です。なお、採用上の事故に付いては、それが一般的なものか・例外的なものかとの、冷静な見極めも必要です。

 企業・職場での差別事件に付いて

 本書では九件を取り上げていますが、直接的な旧部落系の人々への差別に当たるものは有りません。先述しましたが、差別とはある条件のもとで成り立つものです。かつ意識(内心)の問題や具体的対象を持たないものとも異なります。当然、ほぼ対等な者が相手を不当に蔑視する言い方をしても、差別とはならず、許されない悪口となるだけです。
 さて一件はACM社のA社長が職員B氏をたしなめた際に、死人は非人より下などと語ったものです。社内的地位を有する人の公けに近い場所での発言としては、不適切かつ軽率なものであり、やはり慎みと良識が必要であった様です。

 一件は保育園長による同和教育に関する取り上げ方への批判、一件は公務員T氏による「部落を必要としている人がいる」などの発言に付いてです。本書には他所でも、旧部落系の団体の活動や旧部人への批判、行政の対応に対する批判などが見られます。
 本書はこれらに対して差別と捕らえています。確かに幾つかの発言は、内容が整理されていない・主観的な発言となっている為、誤解され易いでしょう。しかし素直に聞けば、それなりの論旨は有ります。もっときちんと論議して行く必要性も含まれています。旧部団体なども、安易に差別であると決め付けたり・非難するべきではありません。冷静・対等に意思の疎通を図るべきです。

 教育現場における差別事件に付いて

 本書では四六件を取り上げていますが、本来の部落差別に当たるものは一件しか有りません。大半が生徒などによる、いわゆる差別用語の使用事例です。しかしこれらは全て、先述した組織的などの実態が有りません。単発的な悪戯ですから、差別を成立させる条件が無いのです。
 ところで、私も教員として生徒の(時には教員の)言葉使いの悪さ・軽率さ・用語の不正確さにはあきれ果てています。実に罵詈・雑言・排除・嫌がらせ・押し付けなどの言葉が飛び交っています。この様な風潮が有ると、旧部落に関する片言の知識を持っている生徒の一部が、やはり軽率に用語を使う様です。大きくは言語感覚の混乱でしょう。そこで教員も言語上の基本的な常識や良識に立って、例えば「自分に言われて嫌な言葉を、他人に言ってはいけない」などの躾(しつけ)をきちんとするべきなのですが、しかし、なかなか上手く行かないのも現実です。

 さて、一件は慶応大学学生(二七歳)による、旧部落系の人々などに対する、誹謗落書き・葉書などに付いてです。彼は誹謗をしつこく繰り返した為、大学側に発覚して、事情も聴取されています。釈明によると、かつていじめを受けていた・今も復讐したいと思っている・部落解放同盟に代行してもらいたいなどと語っています。彼は文学部に編入する迄に苦労をしており・時間も掛かっていた様です。なおこの当時も心情面で相当に屈折しており、精神的にも不安定であったと思われます。
 彼の行為も弱者のもので差別とは言えませんが、器物損壊・名誉棄損・準脅迫などに当たります。私見ですが、大学は彼を退学とせずに、停学により本人自身の立ち直りを助けた方が良かったのかとも思われます。

 一件は京都大学で起きている、しつこく続いた、誹謗・中傷の落書きや文書送付などです。この行為者も相当に異常な精神状態にあると思われます。本人の為にも早期発見と保護が期待されます。
 一件は中国地方の小学校において、校長が職員朝礼の時に、教室の増設に付き、郊外の人々へ向けた幾つかの誹謗言葉を発して、この内で「同和地区のやからもおる」と語ったものです。これは旧部人に対する差別自体を目的としたものでなく、本筋は増設運動を非難したものです。しかし校長としての立場と朝礼としての場所を合わせ考えると、差別発言と理解することも可能でしょう。
 ともあれ、一定の社会的立場を有する人は、安易にののしり言葉を用いるべきではありません。

 地域社会での差別事件に付いて

 本書では一六件を取り上げていますが、明確な旧部落系の人々に対する差別事件は有りません。先にも述べましたが、国民の内には少数の品性下劣な人々がいます。彼らは自分の有している偏見や悪感情などに基づいて、加害的か逃避的に、何らかの発言や行為を繰り返しています。
 例えば五十才を過ぎたバスの運転手は、父から受け継いだ感覚も含めて、若年時に育てた意識によって、旧部人を小馬鹿にした発言をしています。また三重県の教員は現在の町内会に旧部人が居ると言って、他の会へ移ろうとする逃避型の行動をしています。なお自分が被害者であるとの思い込みから、町役場へ「同和でない証明を」もらいに行った人もいます。

 三人の様な愚かな人々の言動は、愚かな少数者として、当分は続くと思われます。下劣(愚か)な人が、自分が下劣であると気付くのは難しいことです。
 なお一件として、土地の売買と家の建築を巡るあつれきが有ります。既に売却を終了した後に、旧地主が購入者の建築を妨害したとの件です。しかし具体的には何も分りません。妨害自体は非行ですが、地主と言う経済的立場を利用していない為、差別に当らないと思われます。

 公務員による差別事件に付いて

 本書では二件を取り上げていますが、一件はは誤解を生じ易い表現に付いてです。一件は総領町の町長が地域学習会の席上で、「結婚の話として・・・被差別部落の人は紹介せんと思う。先方にも悪い」と語ったとされるものです。発言自体が内容不足・主語不明で、かつ町長も強く否定していますので、実情は分りません。何れにせよ社会的立場のある人は、公的な場所で発言する場合、影響力の大きさも考えた上での慎重さが大切です。

 宗教界の差別事件に付いて

 本書では八件を取り上げていますが、どれも明確な差別に当たりません。一件は浄土真宗のある組長が、仲間内の発言で、かつて「北海道は・・・エッタも来たし、一旗揚げようとした人たちも来たが・・・自然と・・・差別がなくなった」と語ったものです。彼には差別意図や何らかの行為も無い様ですが、例え方としては軽率です。自省した方が良いと思われますが、これだけです。
 一件はある住職が私的な会話で、Bさんに対して、「Aはこれだ」と四本指を出しながら言い、交際しないことを勧めたものです。彼はBさんからも反発される様な、愚かな言動であったと気付いて、反省することも大切です。なお彼とA氏は共にかつての町議会議員だったそうです。(遺恨が有ったのでしょうか)
 一件は浄土宗東京地区の集会で、A住職とH同和推進委員長の見解が異なったものです。A氏が「寺院は・・・少ない予算のなかで同和・・・などを全部ひっくるめる必要はない」と発言し、H氏が反論したものです。この件はA氏に理解不足が有ったにせよ、要は論議するべき事柄です。安易に差別発言と決め付けるのは誤りです。
 
 一件は奈良県のA僧侶が旧部落系の家の葬式に出た後で、村役場へ行き、係り職員に「同和地区はお布施が少ない」などと語ったものです。役場に行けば不足分をどうにかしてくれると思ったそうですが、無知と言うか・・・。
 一件は奇妙な話です。曹洞宗の伝言掲示板で、「上見ればほしいほしい星だらけ 下見て暮らせ星の気もなし」と示したことに対して、広島県連のN委員長らが「部落差別を助長する」と抗議したものです。筆者もこの文言は知っています。無き母から「我がままとぜい沢ばかりを求めずに、困っている人や苦労している人のことも考えながら、暮らして行きなさい」と教わっています。ともあれ言葉狩りは止めるべきでしょう。

 マスコミ・出版界における差別事件に付いて
 
 本書では二件を取り上げています。一件は「江戸時代の身分制度に対する質問」で、一件は「身元調査」などに付いてですが、共に差別ではありません。後者における必要性と公正さの確保に付いては、先に述べた通りです。

 差別投書・落書き・電話に付いて

 本書では四二頁(ペイジ)に渡り五九件を取り上げていますが、差別と言えるものは一件も有りません。(最後の一件は論議の問題です) 旧部落系の人々への悪口などではあっても、この内に組織的などの条件を伴って行なわれたものは一つも有りません。全て品性下劣な人々や弱者や精神的に不安定な人々による悪戯です。差別能力を有さない人々が、自身の劣等性をさらけ出しているともいえましょう。ただし器物損壊などで取り締まることは必要です。
 さて今後に付いてですが、少数であるとは言え、この様な人々は急速に減少することも無く、下劣な事柄を続けて行くでしょう。しかし社会総体へは何の影響も与えられませんし、この先で増加して行くとの予兆も有りません。
 大切なことは、旧部人も含めて、常識ある人々が、この様な下劣で愚かな行為に惑わされないことです。かつ差別を批判する団体側も落書きなどを取り上げて、活動の手段としないことです。
 少数の劣等者などのうごめきを、所詮それだけのものとして消し去って行く、もっと普通の受け止め方も大切なのです。


 ここ迄見て来た様に、旧部落系の人々に対する差別は、既に特別な例外でしか有り得ません。今日では大半が消滅しています。
 確かに今後も、一部の自己保身的な経営者や人事担当者などが、時代錯誤的な判断を持ち出すことは有るかも知れません。これは強く非難されて然る可きです。筆者も同意して語ります。しかし「一つでも差別が残る限りは」などと言う言葉に、すり替えては不可です。

 本論では本書の全体を見て来ました。この分野に付いては未だ未だ開かれた論議が少ないと思われます。旧部人も含めて、不幸かつ過剰な思いから離れて行く為にも、より一層の論議を期待しています。